昭和44年 8月27日 朝
御神誡「真の道におりながら真の道を踏まぬこと」
真の道の心得の中に、真の道におりながら、真の道を踏まぬことと、そこんところを分からしてもらう。
歌の中にありますね。『真の道に叶いなば、祈らずとも神は守らん』といったような、たしか歌があったと思います。果たして祈らんでも、真の道に叶うたら、神様が守って下さるだろうか。おかげを頂けるであろうか。
これは、やはりやっぱり信心のない人の作った歌だろうと思うね。真の道というのはね、信心をしなければ分からない道なんだ。真の道っというのはね、信心をしなければ分からない道。それを信心のない者が、『真の道に叶いばな、祈らずとも神は守らん』
なるほど、天地の親神様は信心があろうがなかろうが、一応におかげはやってあると、また天地の親神のご守護を受けなければ、これは人間だけではない生きとし生ける者、ね、一切動物は言うに及ばず、植物でも生きとし生きるもの、この神様のおかげを受けなければ立ち行かん。生きていかれない。
それは、まぁ例えば、生きとし生けるものなのであり、人間なのである。ね、ですから、そういう広い意味合いにおいてならば、それこそ祈らんでも真の道に叶わなくても、守って頂いておるのである。おかげを受けておるのである。そうですわね。
ところで、信心というのはそうじゃない。信心をさして頂いて、初めて分かるのが真の道なわけである。ね、それじゃその、真の道に叶いばなということは、信心をしなければ、真の道は分からない。
で、そこで、次の問題になるのは、そんなたくさん信心はあります。あれはあの、今、忍者映画がね、テレビで子供達に人気の的になってますね。忍者。昔の忍術使いと。ね、この当時、忍者というのは非常に軽蔑されたんですね、侍からはもう人間じゃないと言われたんです。
だから、忍術使いの歩く道は、もう人間の外道の道だと、獣道だと言われたですね。獣と同じだと。今のテレビ映画では『天と地と』というのがあってましょう。あれ、先日たまたまちょっと見せて頂いたところに、えー、上杉謙信ですか、上杉謙信は、忍者嫌いであったというところが、ちょっと場面であってあった。
もう、あの当時は戦争すれば、あっちこっち忍者が、影の働きというものをしたらしいですね。いわゆる今でいうならスパイです。スパイ行為をしやったわけです。だから、そういうことは、いわばあの、上杉謙信は嫌ったと。
まぁ、いわゆる正々堂々と戦うというような、まぁ、見地からでしょうけれども、そう言っております。いわば、人間の踏む道ではないと。外道の道だと。外道の道、外道だと。または獣道だというふうに決めつけておりますですね。
そこでうんなら、やはり人間が、である以上人間の道というのがあるわけなんです。ね、人間の道というのがある。だから、この真の道というのは、人間の道でもないわけなんです。ね、ですから、信心がなくて真の道に叶いなば、なんて言えるはずがないわけですよ。
祈らずとても、まぁいうならば、正直にしておけば、もう神様が守って下さるといったような類のものだと思いますね。けれども本当に信心をしてみて、分からして頂くことは、とてもとても真の道というのは、本当に真の信心をしなければ、分かることではないということ。
ね、そんなら真の信心とは、私の信心は真の信心、お前の信心は真の信心じゃないと、まぁお互いにその言い合いますけれど。例えば、創価学会なんか、でしょ、私は直接話を聞いたことないけれども、もう創価学会で拝んでおる、その仏様っていうか、ね、唱えておる南無妙法蓮華経(法華経)だけが本当なものであって、他の仏教は全部邪宗だ邪教だと、もうそれは徹底して叩いておりますね。
それこそ、いわば「呪道?」だと言っております。地獄の案内、例えば真宗なんかですね、なんかね日蓮の言葉がありましたよね、何々宗は地獄の道だとか、外道の道だとかいうふうに、その日蓮さんは決めつけておられますよね。
だから、日蓮が信じとる、そのだけが本当なもんだというわけなんです。ね、だから、もう今では、仏教とかじゃない、あらゆる宗教があります。あれでもう、その人達の口にかけたら、もうその宗教の全てがまちがった、いわば邪宗だ、邪教だと言うております。 ね、ですから、まぁ私がするならば、そういうことを言うような宗教は、どういう本当に、これは宗教の風上に置けない宗教だと決めつけたいですね。ね、教祖様はそこんところを、『自分の信ずる神ばかりを尊びて、他の神を侮るなかれ』とこう仰る。
『薮神小神の前を通っても、一礼をする心を忘れるな』とこう仰る。そういう生き方でありますけれども、はっきりこの言うておられることは、ね、真の信心ということを言うておられます。
ですからその、真の信心というのはですよ、やっぱりたくさんはないと思うね。うーん、今はおられませんでしょうが、「千束?」に古賀さんという方が、先日、皆さん御本部から帰ってまいりましてから、あー、今、あの御本部の、お茶の接待をなさっておられます、方があり、ご婦人があります。その方、古賀さんの娘さんですが、色々、学院生のことで大変お世話になると言うておりましたが。
その方の、まだ吉井の教会で、それこそ第一級の信心をしておられました方ですがね。大変、元気の良いおばあさんがおられ、今はもうおられませんでしょう。今は親族もおられないようですが、あー、その方のところに、ぜひお話に来てくれっていうんで、お話ににいったことがある。泊りがけで。
ここのご信者さん方、全部、「 ? 」にまいりまして、一晩中、あちらのご主人の関係の信者さん方といっしょに、お話をしたんです。で、翌朝、あー、朝の食事を頂きます時に、そこん古賀さんが言われますのに、先生この、この扇子は私どもの宝もんでございます。
いっぺん拝んで見てください。先日、御本部にお参りをさして頂いた時に、三代金光様の時代。三代金光様にお願いをして、お書き下げを頂きましたと。こちらから白紙を持っていって、これに一言でもよいから何か書いてください。古賀の家の宝にいたしますからと、まぁいうとお願いさして頂いたら、もう扇子の真中にですね、それは小さく小さく、真の信心と書いてあった。
白扇の真ん中に小さく小さく真の信心と書いてあった。それを古賀さんは、私どもの家の宝だと。先生どうぞこれを拝んでみてください、と言われるから、そんなにありがたいものなら、私も拝まして頂こうというて、白扇を開かして頂いた。
開かして頂いてなるほど、真の信心、真の信心、金光様の信心すりゃ、誰でも思うことである、誰でも唱えることである。ね、ここのあるご信者さんが、ここでちょっと不名誉なことがあってね、自分の意に沿わないことがあってから、あのー、信心をやめた。
そして、それでもやっぱり、金光様が忘れられずに、ある教会にお参りさせて頂いた。そしたら、そこの先生が言わっしゃった。はぁー、どこで参たっちゃ同じことばい。真の信心さえすりゃ助かるっち、こう言わっしゃった。
そりゃあそうじゃろうけれども、信心すれば助かるだと、ところがその真の信心そのものが、難しいなぁ。だから、同じ、なら金光様のご信心を頂いておっても、金光様の例えば教会であっても、真の信心がでけてないところは人が助からん。教会が発展せん。
だから、金光様の信心頂いておるから「 ? 」、真の信心だというわけにはいかんのだ。ね、これは何々宗だって、何々派だって、私は本当に「 音声不良 」人が助かっていくこと。
そういう例えば、働きがあっておるならば、まぁまぁですけれども。ね、真の信心というのはだから、結局、真の信心というものを目指さしてもらわなきゃならん、同時に真の道を歩かなければならん。
ね、それはなら、もちろん獣道でもないし、人間の道でもない。この辺にちょっと、あー、信心のある方が話を聞いとっても、今日の私の話には抵抗を感じるだろうと思いますね。人間の道ではないのですから。
けれどもそれは、本当をいうたら人間の道なんだろうけれども、と言わなければならないほどに、現在みんなが歩いておる人間の道というのは、邪な間違った、いわば獣道にも等しいような道を歩いておるからなのです。
だいたいは、真の人間なら真の道を踏めるはずだけれども、その真の人間がいなくなり、少なくなった、ということなんでです。ね、ですから、私ここでは、人間の道じゃないと、信心と人間の道は「 」といってこそ、本当はそうじゃない。人間の道なんだ。
その人間の道を、歩いておるというその人達が、実を言うたら、間違った邪な、いわば人間じゃないですけれども、獣が通るような道を、平気でああやっておる。我情我欲のために、日々の生活をしておるなんかは、もう獣道ですよね。
ただ食うため、食べるため、やったらそれは牛だって、馬だって、そんな生活はしておりますよね。ね、そしてそれが、自分のそれを欲し、例えばそれがいると言えば、例えばばらその、獣なんかはそれを殺してからでも自分の意を通そうといたしますでしょう。
ね、強い者が勝ちといったようなことになる。人の持っとる茶碗ごと叩き落してからでも、自分が幸せになろうとする、そういう時勢、そういう人間がうようよしておる。から、私はあえて、信心、真の道とは、真、獣道でもなからなければ、人間の道でもないと今日は言っておるわけなんです。
そこでなら、真の道とは、どういうことかというと、「和賀心が神に向こうの信心というのじゃ」と仰るような信心。自分の心が1歩1歩、神様に近づいていけれるというような道が真の道なんだ。
和賀心が神に向かって、一歩一歩近付いていく。「信心とは和賀心が神に向こうのが信心というのじゃ」ね、そこから自ずと真の道も付いて来るのである。ね、そこでその真の道というのは、信心をしなければ分らないんだと、こう私が言っておりますよ。
ね、信心のないものなんだ、ないものとね、真の道に叶いなばなんて、実を言うたらおこがましい。なるほど真の道に叶うならば、神様を祈らんでも願わんでもです、それこそ願い以上のおかげを受けられることも事実である。
そこで、私どもは信心を求めるということは、真の道を求めることなんだ。信心のけいこをすることは、ね、どうすれば真の道に出られるかということをけいこするんだ。ね、そこで、「此の方の道は祈念祈祷で助かるのではない、話しを聞いて助かる道」と仰るのはそういうわけなんだ。
祈念祈祷じゃない。話を聞いて、話しを聞くところから、はぁー、そうだなぁと心開けてくる。はぁー、なるほど自分の歩いておった道は、これは真の道ではなかったんだなぁ、これは人間の歩くべき道じゃなかったんだなぁ、と分るのである。話しを聞くから。
ね、天地のいわば道理を聞かしてもらい、ね、いわゆる信心の体得であり、法則の体得である。「真の道におりながら、真の道を踏まぬこと」ですから金光様のご信心を頂いたから、みんなが真の道を歩いているわけじゃないんだ。だから、信心をさしてもらう者自身がです、ね、真の道とは真の道と、私は真の道の追求しなければならない。
真の道が分るために御理解を頂かなければいけない。ね、真の道を分からして、そこで真の道とは、信心をしなければ分らない道だと、今日私が申しましたが、そんなら果たして、なら信心さえしとれば真の道が分るかというとそうではない。
御理解70節に、「人間は万物の霊長であるから、万物を見て、道理に合う信心をせねばならん」とこう言われてある。人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をしなければならない。
ね、だから、道理に合う信心でなからなければ、真の道は分らないということが分ります。ここが今日分らなければいけない。ね、人間は万物の霊長であるから、ね、万物を見て道理に合う信心をしなければならない。どんなに考えても道理に合わない。
先日、東京からやって参りました方達が、話してありました。もうそれこそ、わずかばかりの間に、東京の財閥といわれるくらいにのし上がった、成功者があった。それが、10年分の間に、もう影もないように没落してしまった。
それこそ、その方の、家にみえるときなんかは、もうお嬢さんが、お嬢さんが1人みえる時に、お付きの人がついとるというような、大変なことだったのが、先日からみえたのに、もう見る影もないほどに、みすぼらしい格好で町で会うたというわけである。
私の話を聞きながらその方が言うんです。本当にその、栄枯盛衰ということをいうが、ね、本当に人間の運命というのは分らないもんだとこう。もう、とんとん拍子にずーっと、そのいわば財閥というほどしに、そのおかげを頂いたんだけれども、今度はひとごとつまいずいたら、ずーっと、その、そん没落してしまった。
人間「 ? 」財産ができるとね、その財産を今度は減らしてはならんと、こう思うんですね。財産をどうしてもある程度作るまではね、もう一生懸命大胆に仕事を当てていったんです、ところがもうこれだけのことができたらです、この財産を減らしてはならん。 そういう欲望にかられるようになる。そこで、この、この財産は減らさないために、それこそ、まぁいうならば、○○宗というようなある宗教に凝ったわけです。そこのまぁお坊さんっていうか、お取り次ぎ者っていうか、「とうにんさん?」っていうか、非常にその徳を受けた方だから、もうその人を生き仏様のように尊敬して、例えていうとどっか「仙台?」辺りからね、茶室をそこに、何百年っち経った茶室を買うてきた。
ね、はぁー、見事な茶室だったらしい。それを自分の村の一郭に建てたところが、そのお坊さんに怒られて「 ? 」ところが、それは方角が悪いとこう仰った。仙台の方から「 ? 」ところが、方角が悪いっち。
そりゃ、早く取り「 ? 」さないけん。同時に、誰か奥さんか娘さんかが病気じゃった。ね、だからその「 ? 」頂いたら、ね、そういう方角の悪いところから、方角の悪いところへ、茶室を持ってきたことが原因だから、それを取り壊すさないかんのは、大変な金額らしいけれども、それを取り壊してしもうた。
というようにもう、一時が万事にこの財産を減らすまいとしてですね、もういちいちお伺いをたてたんですね。たくさんのお金を使って、そしてその、まぁその仏様というか何様かを信仰しとるというんです。
それがもう、そこの家のおかげを落とされるもとじゃった。はぁー、もう凝りに凝ってあったそうですから、例えば今日旅行に行くっちいう時ですね、その坊さんが、あー、そっちの方角にいっちゃいけませんよって言ったら、もうその通りにされたそうです。
それでもうそれからはね、もうどこどこに、だから動きがとれなくなったんですね。自分の思うところに行けなくなったんです。いよいよ自分というものが窮屈になってきた。 考えてみると色んな宗教があるもんですよね、この広い天地をです、その五尺の体の置き所のないごと、信心が縛ってしまう。あっちの方角にいっちゃいかん。ところが、それでも、やっぱりたくさんの社員の大きな会社ですから、社員の動き「?」までに色々と、その仏様の言われる通りにしなきゃいけないというように、その厳格にされるようになった。
それは、この財産をもう減らすまいと思うたから。ね、今までは一生懸命がまん、がまんばしてこんだけの財産をつくったが、これから減らしちゃならんから、これからはいっちょ間違いのない道を行こうと思ったんです。
「 ? 」もじゃないですかね。せっかく建てたお家、ね、はぁ、ここに「?」位が悪かけんというて、せっかく建てた「くど?」を取り外してしもうた。お祓いしてもらったっけれども、やっぱり、運命の展開することはなかった。
とうとう没落してしもうた。ね、ですから、そういう信心もある。これは人間が万物の霊長としてする信心じゃないことが分りますね。獣道にも等しい、私は信心だと思いますね。
人間は万物の霊長、私そういうところになってくると、金光様の信心の素晴らしさ、偉大さっていうものを感じるんです。ね、日柄を言うことも、いけないじゃなくて、日柄を言うことはご無礼とさえ言うておられるでしょう。
ね、家を建てるのに、ここにあれがあれの、このということは、天地に対して、天地の中に指一本だって、天地の、指一本でこう押すだけでもです、天地の親神様のお恵みに漏れることはなきことぞと仰っておられる。
その素晴らしい神様の栄光に満ちた、そのお土地にですね。ここはいかんのあそこはよかのと言うもんですから、ご無礼にならんはずがないです。ね、人身を惑わすそういう宗教。もう宗教とも言えませんですねそれは。
けれどもやはり、人間は万物の霊長である、まず私どもはね、霊長の自覚に立たなくてはいけません。自分は万物の霊長であるという自覚にたって、ね、そして、その天地の道理というかね、万物を見て道理に合う信心をせよと仰る。万物を見て道理に合う信心をしなくてはいけない。
おかしなことですよ。日本人に日柄方角があるわけありません。私ども、支那に長くおりましたけれども、支那人はそんなこと言いやしません。アメリカ人が言いやしません。ね、もちろんだから、アメリカ人ならアメリカ人の迷信があります。
ね、支那人なら支那人の迷信がありますけれども、日本人はそういう迷信、そういう迷信を売り物にしておるような宗教がある。宗徒じゃないけれど信心がある。おかしな話です。ね、だからそれで真の道が分かるはずないでしょう。
人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う、道理に合う信心をさせて頂かなければ、いわゆる私が申します、『真の道におりながら真の道を踏まぬこと』と、その真の道すらが分からんのです。
真の信心をしなければ、からというて、金光様のご信心頂いとるけん、私達は万物の霊長である、だから万物を見て道理の信心をしておりますから、真の道に、を辿っておるかといったら決してそうじゃない。
金光教の信心頂いておってもそうなんだ。金光様が例えば仰っておられるようにね、古賀さんの所で、白扇を頂いて『真の信心』と書いてあった。その真の信心ということ、はぁー、有り難いですなぁと開かして頂いて、それを拝まして頂いとったら、三代様のお声で頂いたことは、「真の信心とは、安心のおかげを受けることであります」と仰った。
ね、だから、金光様の信心じゃなくても、何様でもです、ね、万物の霊長としての、値打ちである、ある私どもの自覚がでけて、ね、そうして、例えば昨日の御理解ですね。
安心のおかげの頂けれる、道を通らして頂くならば、それは真の道だということになります。そこには、だから、邪な獣道的ものはさらさらあってはならない。ね、いわゆる迷信的なものがさらさらあってはならない。
どこまでも、いうなら「 ? 」上杉謙信じゃないけれども、忍者嫌いであると。神から影へこそこそするようなものではなくて、正々堂々と歩けれる道。しかも、人間が万物の霊長であるという自覚に立って、道理に合うところの信心をしていくということ。
ね、そのことが、私は真の信心ではなかろうか、またそういう生き方が真の道を歩いていくんではなかろうか。『真の道におりながら真の道を踏まぬこと』とこう言っておられるのは、「 ? 」例えて言葉を変えて言うのなら、金光様の信心をせっかく頂きながら、ね、金光さまが教えてくださる真の道を、踏みよらんじゃないかということになるです。
だから、金光様の信心に頂いとるから、金光様の信心だけが真の道だ、真の信心だとは言えないわけです。ね、ならこれが天理教なら天理教だっていいわけなんです。真の道というのは、天理教なら天理教からでも真の道に、出られるということが言えます。
仏教からだって、真の道に出られるということが言えます。ただし、そこに許されないのは、ね、宗教には迷信があってはならないということ。人身を惑わすようなこと、ような、いわばさらさらあってはならないということ。
人の心を迷いの中に追い込んでしまう。「 ? 」私に「 ? 」頂いたなんかは、そういう例えばね、その人の心を惑わしてしまったわけです。そういう信心は獣道につながる。
だから、この辺のところは、その時の御利益というけども、御利益だけではいけないことが分かる。もちろんここで、ある人が言ったという、『真の道に叶いなば、祈らずとも神は守らん』であって、そういう意味合いにおいて、真の道に叶うたらです、本当に願わんでも祈らんでも、神様はおかげをくださるということがいえます。
ね、金光様の信心を頂いておっても、だから金光様の信心頂いておるから、真の信心だ、真の道だとは言えなくなる。ね、本気で私どもが、私どもがお道の信心によって、真の道を分からしてもらい、ね、同時に、真の道を「?」行うていくという信心。
そこに、祈らずとも、頼まんでも願わんでも、ね、おかげが受けられるということになります。ね、そういう私はおかげでないと、それがね、底の知れんほどのおかげと、無尽蔵、限りのないおかげにはつながらないと思う。
ね、私の頂いておるみ教えの中に、教祖のみ教えにあります、大きな、信心は大きな信心がよい、迷い信じたらいかんとこう仰る。大きな信心。それには、何にも引っかかることのない信心、大きい信心ですから。、なーんにも引っかかることはない。
ところが、小さい小さい信心をしとりますとです、ね、それこそ暦見てから、今日は何の日じゃから、もう向こうには行かれんとか、今日は何の日じゃから「 ? 」もできんとか、今日は結婚式だから、何々の日にはいけないとか。
ね、「 ? 」吉日を選ばなければならない。そこに昨日、一昨日でしたか、久富、久富組の息子さんが今度結婚する。ところが、その「 ? 」吉日を選んだわけなんです。ところが、もうどこの寺院、神前結婚する、もうとにかく満員なんだと。
ね、多くの結婚式場をもっておられる「 ? 」は、もうとにかく、たくさんいっぱいであるから、というわけなんだ。「 ? 」の日だけは。それで、そのもう、良い日っちゅたら、その神社なら神社に行くと、もうずっと、「 ? 」。お供えもんはその一つだけが飾っちゃるだけ。それでガジャガジャガジャガジャ、何とかあげてもろうて杯頂いて、そして済んだらそう、向こう側に行ってくださいって言うて、次の人達のこしらえてから待っちょる。
もうその日がだから大繁盛だそうですね、結婚式なさる神社は。「 ? 」吉日の日だけは。おかしなことじゃないですか。人間は万物の霊長としての、本当にいわゆる獣道を歩いてる人が、いかに多いかということが分かりますよね。
それで、私がね、そんな悪か日っちゅうとも、あんた行く前から、ようもなからなきゃ、悪もなかちゅうごたる日はなかの、と私は申しましたけれども。ばってん、私どもは信心しよるけん引っかかりませんけれども、先方は信心がないから、その「 ? 」吉日をと言われるわけです。
ね、だから「 ? 」吉日に結婚したからというて、よかってことはなかでしょうもん、これは分かっとる。芯をみれば。ね、ですから、なら悪か日でもよか日っち、悪か日もよか日も実はないけれど、なーにも差し障りのない日にしなさい、ほりゃあ神社もゆっくりしとるし、料亭なんかもゆっくりしとるよ、と私もそう思います。まぁいっぺんそげん言わっしゃるっちいって、どげんなったか知らんけれどね。
実に、本当に人間として、私は本気で人間として考えなくてはいけないと思うですよ。ね、人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をさして頂いて、しかも信心をさして頂いて、分からして頂く真の道が分かったら、その真の道を行じていくということ。
それは、私は教祖様が教えて下さっておる教えを行じること、それが真の道を踏んでいくことだとこう思います。私どもは、ね、だからそこには、祈らずとも神は守らんというおかげが約束される。
ね、それの例えば1つの見本というのが合楽なんです。ね、そういうことを問題にしない。真の道を分からしてもろうて、その真の道を踏む行おうということに一生懸命精進しておる。
だから、あげんしてください、こげんしてください、家を建ててください、なーんとも言わんのに、家が建ってきたり、ね、必要なものが必要に応じて、頂けてくるようなおかげを頂かれるのです。
そういうおかげにつながらなければ、神様喜んでくださらんのです。ね、そういうおかげの頂けれる道を、私は真の道と言い、ね、その、おかげの受けられる生き方を、いわゆるその道を踏み行うということだと、私は今日は頂きますね。どうぞ。